| 誰もいない生徒会室に、カタカタとキーボードの鳴る音が響いている、だろう。 軽やかに舞台で踊る指が、画面に文字の羅列を生み出していく。本当なら文字盤が奏でる音が聞こえるものだけど、今のあたしにはほとんど聞こえない。ついでに、押されては下に戻る単調な動きすら見えていない。 あたしは視線をキーボード手前のノートに落としたまま、俗に言うブラインドタッチで打ち込んでいるからだ。それに直に鼓膜を揺らす歌声が、文字盤の軽い音を呑み込んでいるんだ。 バラードを歌う女性歌手の滑らかな声と、歌を支えるピアノの音色が心地良い。洋楽だから何を言っているか分からないけど、確か和訳にはこうあったっけ。 闇の中では何も見えない 空気も怖がって隠れてるみたいね だけどあなたの音は感じるの 絶対に聞き逃したりしないわ ほら、あなたは吐息をこぼす 指が輪郭を撫でたでしょ? そしてあなたの−−− そこで唐突に歌声が消えた。消えたと言うよりも、片側だけ取り上げられた。 イヤホンをいきなり取り外され心臓が飛び跳ねる。一緒に肩を跳ね上げたあたしが振り返れば、見下ろしていたのは翡翠の色の双眸で。 「……なんだ、日番谷君か」 「なんだってのはなんだ」 ホッと安堵の息をつくあたしに、日番谷君が顔をしかめて、取り上げたイヤホンを返してくる。ビニール素材に包まれた穴に埋め込むタイプのそれが、掌にポンと乗っけられた。シャチハタに似たプレーヤーを操作する間に、日番谷君はパイプ椅子を引き、パソコン机と背中合わせに伸びる長机へ体を向けた。 体側面半分だけが重なる体勢。停止された音楽が消えると同時に降りた沈黙の幕。だから日番谷君の声はよく響いた。 「早いな」 「まぁね……それよりビックリさせないでよ。いきなりイヤホン取るなんて、普通しないよ?」 「話しかけても聞こえねぇと思ったからな」 「残念でした。聞こえるようにちゃんと音量下げてますー」 「そうか。ところで、それは昨日の議事録か?」 「うん」 画面から目を離さないでいても、日番谷君がバックから何か取り出している音が聞こえる。 あたしの正面にあるデスクトップに映るのは、会話形式で綴られた議事録だ。 議事録とは会議で取り上げられた議題、交わされた会話、結果どういう結論が出たかをまとめたもの。生徒会書記であるあたしは、毎週ある会議の当日、遅ければ翌日に議事録を作り、役員全員に配るというとってもめんどくさい役割を担っている。 なぜその場で直接打ち込まないかというと、単純にタイピングの音がうるさいからだ。ついでになぜ議事録を作るかと言うと、誰が何を言ってどんな結論が出たか、正確な記録を残す為。これが次の会議はもちろん、後輩の役に立つらしいけど、書記になってまだ3ヶ月のあたしにはピンとこない。 あたしは軽く背筋を伸ばし、また耳の穴をイヤホンで塞いだ。 「また聞くから。何かあっても声かけてね」 「あぁ」 遠回しに嫌味で“もういきなり取り上げないでね”と言ったつもりだったけど、日番谷君は理解しているのかしていないのか。まぁ、どっちでも良いかな。 直接届く歌声はサビの部分を終え、新しいパートに入っていた。黒人女性歌手の歌声は太くて、深くて、ほんの少しの哀愁も混じっている。この人の存在を知ったのはつい最近で、日番谷君から借りたアルバムがきっかけだった。意外とこういう曲も聴くんだと感慨を与えた本人は、椅子から立ち上がり給湯室へ向かっているみたいだ。 頭の隅でそんな事を考えている間も、指はリズム良くキーボードでダンスを踊り、作業の終わりを引き寄せていく。そして最後の「。」を打ち終えると、集中力がプチンと切れて、あたしの肩と目ににどっと疲労を押しつけてくれた。音楽を止めイヤホンを外すだけなのに、関節の骨がパキッと鳴る。 「……うー、終わったぁ……」 「ほら」 素晴らしいタイミングで濡れタオルを差し出してくれたのは、後に立った日番谷君だった。ありがとう、と言って受け取ったのを見届けると、また元の席に腰を降ろす。 あたしは長方形に畳まれたタオルを、閉じた瞼の上に被せるように置いた。ちょうど良い温度が目の疲労を癒していく。気持ちいいと思う同時に、やっぱりこの作業は疲れるなと思う。 「書記は毎週大変だな」 「ホントだよ。分かってたら私、役員にならなかったのに」 「なったからには文句を言うな」 「言いたくなるよ。特に誘ってくれた張本人には」 「つまり俺か。まぁ、愚痴くらいなら聞いてやる」 苦笑の色を乗せた声にあたしも小さく笑った。 同じクラスの日番谷君は生徒会会計だ。役員募集の時期になっても書記が埋まらずどうしようかと思っていた時、情報技術の授業で軽快にタイピングするあたしに目を光らせ、すぐさま勧誘してきたのだ。そしてあたしは作業の苦労を考えもせず、内申点目当てでつい頷いてしまったというわけだ。 なので確かに文句を言える立場じゃぁない。でも愚痴を聞いてくれるなら、ちょっとくらい甘えようかな。 と思ったけど、頭の中を探しても愚痴という愚痴は出てこない。あぁそっか、疲労みたくこのタオルに吸われて癒されてるんだ。こんな気遣いをしてくれる日番谷君が、あたしは決して嫌いじゃない。 頭の重さに任せ、パイプ椅子の背もたれに体重をかけた。天井を見上げている格好だけど、タオルを被せているから相変わらず何も見えない。 暖かい温もりに包まれた暗闇にいると、いろんな音が聞こえてくる。日番谷君が資料をめくる音。パソコンの電子音。窓越しに届いたのは小鳥のさえずり。少し身じろぎすると泣くパイプ椅子。日番谷君がいるだけで早くなる鼓動も強く響いてくる。 だけど静寂は突然終わりを告げた。 ガタッと鳴った立ち上がる音に、あたしの心臓がどきりと跳ねる。日番谷君は資料を変えに棚へ向かってるんだろう。足音が遠のいて、扉を開ける音とバインダーを取り出す音と閉じる音が続けて聞こえて、戻ってくる足音がする。そして聞こえた椅子を引く音。 ほんの少し期待していたあたしの気持ちが、ちょっとだけ降下した。まぁいいけどね。期待する方が間違ってると思うし。というか、期待する時点で漫画かドラマの見過ぎだって。 と、そこで気が付いた。椅子を引いた音はしても、腰を降ろした音までしていない事に。 日番谷君は立ったまま?でもどこを見ているのか何をしているのかは、歌みたいに音だけでは分からない。気になってタオルをどかそうと布に触れた指を、別の指が押し止めた。 どくんと跳ね上がった鼓動を感じた瞬間、唇が柔らかなもので塞がれる。 それが日番谷君の唇だと分かるのは、ほんの数瞬後の事だった。 「……ものほしそうな口、してんじゃねぇよ」 Kiss in the tender dark 時間差でくるなんて、まったく、意地悪な恋人だ。 present by Honami Sakakibara (YA-KOU) |